ナナナの本棚

好きなことを書いたり書かなかったり。

 

 昔から夫婦喧嘩ばかり見て育ってきた。両親が仲の良さそうな様子はあまり想像がつかない。そもそも父は家にいることが少なく、また母もその生活に慣れきっており、父と母が長く共にいると必ず喧嘩が始まるのである。

 父が良かれと思ってしたことは父だから良いと思うことであり、母のことを考えれば悪手でしかないことが殆どだった。それゆえ母は怒り、そのあまりに激しい怒りに理不尽さを感じた父も怒り、二人の怒りが鎮火してくれることを物陰から祈る私の構図が出来上がった。年末年始に父の休みがあると大晦日は必ず喧嘩していた。最近は大晦日は仕事のことが多いが、その分三が日の後に休みがあり高確率で母の誕生日(1月7日)を父が失念しているため結局喧嘩になった。小学6年生の12月、今年もまた大晦日に喧嘩するのだろうなと絶望した私は何を思ったのか連絡帳を使って担任に相談しようとし、それを母に目撃され激しく怒鳴りつけられた。それ以来家庭のことを外部に相談しようとすることをやめた。

 両親は旅行先でも必ず喧嘩する。「必ずと言っていいほど」ではなく「必ず」である。100%喧嘩するので、母親は先の旅行の際にとうとう二度と父とは旅行しないことを宣言した。

 その最後の旅行は三人で千葉に行った。詳細は省くがまず目的地に辿り着く前に両親は喧嘩した。その時点で母の機嫌は最悪である。マイペースな父に代わって母を宥めることに徹していた私は既に疲れていた。目的地の旅館に着いての夕食、蟹が出た。理由は忘れたが母はその時手を怪我していて、自分で殻をむくことが困難な状態だった。しかし目の前の蟹に夢中な父は母のことを忘れて蟹を貪っていた。これは誇張ではなく、父の食事は「貪る」と表現するのがふさわしいのだ。苛立ちと呆れの籠もった視線を父に向ける母。さすがに見ていられなくなった私(当時中学生)は、「私がむこうか」と恐る恐る言った。

 その日の晩の部屋の空気は最悪だった。もちろん翌朝も最悪だった。私は母に散歩してくると告げて旅館を出た。

 堤防の向こうに澱んだ海が見えた。それなりに強い風の吹く日で、空は曇っていた。今思えば国語の小説問題のようだ。私の心情とその風景は酷く一致していた。

 

 私の本名には「海」の字が入っている。なぜその字を入れたのか大昔母親に訊ねたような気がするが、その返事は覚えていない。ともかく私はこの「海」の字を気に入り、そして実際の海も気に入り、特別なものと思うようになっていた。子どもの頃、行書の「海」の崩され方が気に食わず泣いたこともあるほどに。

 海は中に入るよりも眺める方が好きだ。海に入る準備と後始末が面倒だからだ。

 

 あの日も、いつまでも海を眺めていたいと思った。

 

 一篇の詩を引用する。

 

 おそろしい夕方    北村太郎


  大あらしが近づいてくる
  うす鼠いろの海
  見わたすかぎりの空は、海と
  おなじいろの雲でおおわれ、その雲は
  はげしい風に追われて、絶えず一つの方向へ動いている
  水平線は揺れ
  沖のほうから、濁った、白い波が
  押し寄せ、とちゅうで砕けながら、なお
  うしろの波におされて、新しい
  力となり、ふたたび崩れやすいたてがみを
  ととのえ、ゆっくりせり上がり、ついに
  充実した、ひろい砂浜に倒れる
  大きな、にぶい音とともに、泡に
  網が、たちまちはいあがり、ひろがり
  一瞬とまって、すばやくひきながら
  まじりあい、重なりあう叫びに
  もう一つの変化を与え
  追いつめてくるむきだした歯にかまれる 波が
  波に襲いかかり、しぶきが
  しぶきを吹きとばし、沖から岸までの
  すべての水面は、しだいに
  渦まくスクリーンに包まれ
  くらくなってゆき
  ひがし伊豆の八月の海に、ゆっくりと
  大あらしが近づいてくる

 

北村太郎北村太郎詩集』思潮社、1966・11)

 

 あの日の私に読ませてやりたい詩だ。

 

酒浸り

 

最近飲酒することが増えた。もとからお酒は好きだが、月に一度飲むか飲まないかくらいの頻度だった。今は週3くらいで飲んでいる。それもこれも不安やストレスはすべてお酒で流そうとする習性のせいである。

 

先日ベスフレでわたなべさんが明日飲みオフを開催すると言っているのを見て、ストレスでやられてお酒を飲むことしか考えられなくなっていた私は、カクヤスでウォッカを買った帰り道の電車の中で参加することを強く宣言した。しかしその晩、私はストレスで頭がおかしくなった結果12時間何も飲んでいない胃袋に12%のスパークリングワインを流し込み、軽く食べ物を胃に入れたあと9%の檸檬堂500mlを入れ、さらにブラックルシアン(ウォッカとコーヒーリキュールを混ぜたもののロック)を飲み、見事に人生初の二日酔いを経験することとなった。

 

お酒を飲むことしか考えられない脳みそで気軽に飲みの約束はするものではないと学んだ。

 

わたなべさんとは生活圏が近いので知らないうちに街ですれ違っている気がしないでもない。今後飲みの約束をするときは計画的に行うと決めたので、また飲みの約束をさせてほしいと思っている。

有用性

 

毎日夜を引き延ばそうとしている。それでもいつの間にか朝が来てしまう。昼も夜も、同じことを考えている。私にはなにもできない。できることを探すことすらできない。呼吸が浅く、腹の底が重い。空腹を感じても食欲はない。苦しいと感じることが苦しい。気晴らしの方法も尽きた。むしろ気をそらさずにそのことだけを考えていたほうがマシだ。不意に思考を支配されるほうがつらい。

 

私は自分の欲望に忠実に生きているので、歯を食いしばって何かを我慢したり、自分の過去の選択に思い悩んだりすることはいままでほとんどなかった。だけれども、今その状況に直面している。

 

私は詩が好きだ。詩は私を助けてくれたもので、詩の底知れなさを追究することに喜びを感じていた。だが今、これまで私が嫌悪していたはずの「それがなんの役に立つの?」という疑問に直面している。役に立つ・立たないという表現で文学を判断されるのを嫌っていたはずなのに、その刃を自分の中核に向けている。

 

人生で初めて、ある人の役に立ちたいと思った。いや今までもその人の役に立ちたいとは思ってそうなれるよう努力してきたつもりだったはずなのに、それが実現する前に無力な自分を突きつけられた。あまりにもなにもできなず、まだ何者にもなれていない自分の立場の弱さを実感し、なぜ私は文学を、詩を、やっているんだろうと思ってしまった。こんなことを考えてしまったのは初めてだった。役立たずな自分、役立たずなことしかやってこなかった自分。役に立つかどうかなんてどの角度から物事を見るかで変わるとわかっているのに、今目の前の問題に対処できない自分が悔しくて仕方がない。

 

自分にできることを考え続けることがこんなにつらいって知らなかった。勇気を振り絞って行動を起こしても未熟さをたしなめられて、なにもしなければよかったと思ってしまう。してもしなくても自分の心の弱さが露見するだけで、どうにもならない。無力だ。

 

結局私はなにがしたかったんだろう。

 

 

詩集を開いて詩を読んでいても、思考を詩の中に沈める前に詩集を壁に投げつけたい気持ちになる。かと思えば詩の一節から過去がフラッシュバックして泣き出すこともある。

 

なにもしたくない、なにかしたい、なにかできることがほしい。

 

 

 

 

苦しみとともに

 

 

自分が無力であることを痛感させられることがある。なにもできないのに、涙だけは勝手に流れてくる。生産性のない涙を流して、時間を無為に過ごす。頭の中だけは忙しない。何も考えたくない気持ちと、そのことだけを考えていたい気持ちがないまぜになる。吐き気がする。

 

SNSの人波を眺め、その一部である自分を顧みて、死にたくなる。

 

どうしてこんなときに限って暇なのだろう。仕事があれば、課題があれば、嫌でも眼の前のことに没頭せざるを得なくなるのに。こんなときばかり手持ち無沙汰で、思考を巡らす時間には恵まれている。食欲もないのに三食しっかり食べろと言われ、味のしない鶏肉を口に入れ咀嚼する。歯列矯正の痛みがいつもより強く感じるから軟骨だけ食べていたい。痛い方がマシだ。

 

精神がしんどいときに限って、月に一度の身体の不調も訪れる。その赤を見て自分もそういえば生の人間で、みんなそうなんだよなと思い出す。私たちは現実に生きているから、物語みたいに都合よくは行かない。後悔しないように生きてきたつもりなのに、振り返ると後悔ばかりだ。後悔先に立たず。保身に走って後悔するなんて一番ダサい。

 

涙が口に入って塩気を感じる。詩集を開こうにも汚してしまいそうで読めない。詩人は苦しみとともに生きた人が多い。彼らは苦しみとともに言葉を残した。

 

それでもやっぱり詩集が読みたくて、開いた。一つここに引用しよう。

 

 

 

ピアノ線の夢       北村太郎

 

ある夜わたくしはラジオで

チェンバロの独奏を聴いていた

スカルラッティやバッハや

シャンボニエールの曲をやっていた

どれもたいそうよかったが

チェンバロの音ってどうしてこんなにすばらしいのか

聴いていて涙が出そうになった

にぎやかな悲しみとでもいいたい音だった

 

一曲おわるたびに

聴衆の拍手が聞こえたが

小さな演奏会場らしく

あらしのようでないのが快かった

みんなチェンバロが好きでたまらない人たちなんだなということが

すぐに分かった

わたくしは蜜柑をたべながら

ことしの蜜柑はあまくて安いなと思いながら

演奏のあいまに司会者の質問に答える独奏者の話に耳を澄ました

チェンバロはペダルがありませんから

いいかげんな演奏はできないのです

曲の解釈をはっきり打ち出さないとだめなのです」

音楽に無知なわたくしではあるが

いくぶんかは分かって

なるほどと思った

それにしても

ピアノばかりが大流行で

チェンバロがあまり弾かれないのはなぜなのだろう

いろいろわけはあるのだろうが

ひょっとしたら

ピアノが発明されてから人類の文化はだめになったのではあるまいか

にぎやかな悲しみなんか必要としない時代が

もう二百年も前から始まったのではないか

あとに百年もしたら

楽器の世界はどんなことになるやら

そんなことを考えているうちに

ふと

共鳴箱に収まっているピアノ線が眼に浮かんだ

ぴんと張られたたくさんの弦

ピアノ線はすこぶる強靭である

たしか工業用にもいろいろ使われているはずだ

一九四四年

ヒトラー暗殺未遂事件というのがあったな

もういけません

ピアノ線の刃(やいば)のようなイメージが広がる

独裁者はこの事件で五千人のドイツ人を殺した

なかでも

主犯格の軍人たちを屠殺牛のように

ピアノ線で絞首刑にして冷蔵庫に吊ったのだった

猫はねこ

鳥はとりであるのに

にんげんは

良いことも悪いことも等身大以上のことをする

おまえ

そのことを頭に入れておいて

大きな眼でよく見よ

にんげんの歴史は

至高の愛と残虐の物語でありつづける

また

別の風景が見えてくる

二本の鉄柱

そのあいだに張られている

一本の細いピアノ線

ぎりぎりに絞って

ボルトとナットでしっかり固定されている

うえは青空

したは断崖

そこにおまえはぶら下がっているのかね

体重は

ふたつの柔らかいてのひらが支えている

肉が血しぶきを吹いて裂けるから

むろん水平にも動けやしない

自分がこんなに重い倫理的なかたまりであるとはね

おまえ

ぶら下がりながら無の弦に足をぶつけ

せめていい音でも出さんかね

というような

マゾ的なまぼろしが現れてくるのだった

ラジオのスイッチはとうに切ってしまっていた

部屋は

うす明かりで

しいんとしている

チェンバロの音が耳の奥で鳴り出すと

徐々に

ふかい慰めと感謝の気持ちにひたされてきた

あまくて安い蜜柑をひとつむきながら

悲しみはにぎやかでなけりゃいけないと思った

チェンバロ

クラヴサン

あしたもいい日でありますように

いくら寒くとも

 

 

(『現代詩文庫 続 北村太郎』一九九四・四)

 

夜は詩を読むに限る。体が苦しいときも、心が苦しいときも、詩はちょうどいい。今中原中也の詩を読んだらきっと余計に泣いてしまうから、こんなときは北村太郎がいい。

震災の日

2011年3月11日、私は小学五年生だった。

当時静岡県の小学校に通っていた私にとって、大地震は「来るべきもの」という認識だった。というのも私が東京の小学校から静岡に転校したのはマスコミの災害担当で働いていた父親の転勤が原因であり、またその転勤の理由が「南海トラフ巨大地震が来るかもしれないから」であったからだ。そのように父から直接言われたわけではなかったはずだが、私はそう信じ込んでいたし、おそらくそうなのだろう。

 

さて地震発生時、私は六年生を送る会の準備や予行演習に励み疲れ切った状態で帰りの会に参加している最中だった。

揺れる教室の中で皆が素早く机の下に潜る。恐怖はそれほどなかった。ああまた揺れたな、程度だった。しかしそれなりに揺れが強かったため集団下校することになり、校庭に集められ先生の引率の元、家が近い者でまとまって帰宅した。その最中、今は無きワンセグを使ってガラケーの小さな画面でテレビを見ながら生徒に付き添っている先生がいた。どの先生だったかは覚えていないが、その光景に異様さを感じ心がざわめいたのをよく覚えている。もしや静岡を震源としたちょっとした地震ではなかったのか、と嫌な予感がした。

帰宅すると母親は泊まり込みで仕事になるであろう父のためにシャツにアイロンを掛け、米を炊き、風呂を沸かしていた。その様子を横目に見たテレビには例の津波が映っていた。先生がガラケーで見ていたのはきっとこの光景だった。

私の予感は的中し、これは静岡で起こった地震ではなかった。静岡であれだけ揺れたのだから、震源の東北はひどいことになっているのだろうと小学生の私でも容易に予想ができた。慌ただしく帰宅した父は着替え一式とおにぎりを持って職場に向かい、しばらく帰ってこなかった。

 

来るべきものと思っていた大地震が訪れた。しかしそれは南海トラフではなかった。そしてその規模は小学生の想像力を遥かに上回るものだった。CMはほぼ全てACジャパンになり、ニュース番組はどれもこれも暗い話題だった。災害とはこういうものなのだと初めて知った。

 

震災の日からしばらく、家から徒歩10分の塾に一人で行けなくなった。街灯のない夜道を歩くのが怖くなったのだ。地震とは全く関係ないのに、おかしな話である。しかしその程に恐怖を小学生の私の心に与えたのが、東日本大震災だった。

 

私はもう23歳になった。東日本出身でもない、ただの静岡県の小学生の一人だった私でも、あの日のことは覚えている。

 

 

死について

 

 私が「死」というものを意識したのはいつだっただろうか。正直なところはっきりとは思い出せない。曾祖母と祖父母を亡くしたのはそれぞれ小学校高学年、中学二年生、高校二年生のときだったが、私にはそのことを契機として「死」を考えることはなかった。それほど親族との関係が薄かったのだ。年に数回親に促されて電話させられたり家に泊まりに行かされたりする血がつながっているらしい人たちという、あまりに薄情な認識で彼らのことを見ていた。祖父母は私をかわいがってくれたようにも思うが、私からすれば児童館の職員との関係と同程度の親しみだった。

 祖母の葬式で母親に言われた言葉は今でも覚えている。

 

「あなた好きなアニメのキャラが死んだら泣くのに、おばあちゃんが死んでも泣かないのね」

 

 祖母は父の母なので私の母にとっては義母であるが、祖母の葬式で母は号泣していた。だからこそ涙一つ見せない私に母はこう言ったんだろう。従兄弟も泣いていた。彼は両親が共働きでよく祖母の家に預けられていたから、私より深い親しみを祖母に抱いていたに違いないので、取り乱す気持ちもわかる。しかしなぜ母が泣くのか私には全くわからなかった。私はよく母から祖母の愚痴を聞かされていた。祖母が私の父に対して甘い、ということがそのほとんどであった。そのため私は薄ぼんやりと「母は祖母が嫌いなのだろうな」と思っていた。

 しかし母は泣いていた。そして泣かない私を責めた。あれほど顔を顰めて祖母の愚痴(もはや悪口に近い)を言っていたのに、そんなことが言えるのかと思った。しかも「アニメのキャラが死んだら泣くのに」と母は言った。

 その後ずっと「フィクションには泣けるのに現実の人間の死には泣けない私は薄情なのだろう」と思っていた。そして薄情な自分を恥じた。しかし今では恥じることもないような気がしている。自他ともに認めるゆるい涙腺を持つ私だが、泣く気がしないときもあるのだ。親族の葬式に出ても心が動くことはなかった。私にとってほぼ他人だであるあの人たちがどのように生きてどう死んだのか、私はほとんど知らなかった。

 

 漫画『ONE PIECE』のキャラクターであるヒルルクは、人は忘れられたときに死ぬと言った。

 私が普段読んでいる本の作者は9割が既に他界している。

 私が読み、彼らについて書き、そして後世に伝える努力をすることで、彼らは生き続けられるのだろうか。

 

今年一年のまとめ

やあやあみなさんこんばは、

一年ぶりのブログです。年に一回更新を続けて三年目になります。

 

今年は大学四年間の中で二番目に忙しい一年でした。一番忙しかったのは週5で1限があった大学一年生です。

 

 

さて、ではまずベストコスメ発表します(唐突)

・ダブル ウェア ステイ イン プレイス メークアップ(ファンデーション)

卒業式の袴の前撮りのために買って以来愛用。紫外線吸収剤不使用でハイカバーで比較的マスクよれにも強い。メイクしてるぜ!ってかんじの肌が好きなので大好き。

 

・アイブロウ ビッグ ブースト ファイバー ジェル(眉マスカラ)

この子は死ぬまで使うかもしれない。今のところ代わりを見つけられていない眉マスカラ。左右の眉毛の高さが違う頭のおかしい私の眉を一番マシに見せてくれる。最初に買った色は廃盤になりました泣く。そんなに色は染まらない。

 

・リリミュウ インザミラーアイパレット 03 ウィンターグレイ

11月に買って以来めちゃくちゃ使っている。なんならDiorのバックステージアイシャドウパレット(1月に買った)より使っているかもしれない。なにせオフィスメイクとしても使える。濃くすればもっとしっかりしたメイクもできる。グレーでキリッとさせるだけではなく、ピンクとラメでやわらかくすることもできる。最高。本当に好き。

 

なんでここに書いたかというと、ベスコスを別でまとめている時間がなかったからです無念。来年度はコスメ垢をちゃんと作って稼働させたい。

 

今年もいろいろなことがありましたが、やはり一番の大きな山は大学院入学試験でした。去年から院試の準備は進めていましたがその中で困ったことがいくつかありまして

 

・学部入試と違い、大学ごとに偏差値わかって自分の「受かりやすさ」がわかるわけではない

・その大学に自分のやりたい研究にあった教員がいるかどうかが一番大事

・研究計画書とはなんぞや

・ググっても基本理系の院の話しか出てこない

 

まあ文系の院に行く人がそれだけマイノリティということ何でしょう。博士後期過程に在籍している先輩には「そんな緊張しなくても受かるよ」と言われていましたが、高校入試大学入試ともに第一志望に落ちている私は気が気でありません。ずっとあわあわしていました。

 

現在在籍している大学でご指導いただいている先生の元で今後も研究したいと思っていたのですが、先生に一応他の大学院も受けたらどうだと言われ、説明会に行ったりもしました。まあその大学院の一次試験と本命の二次試験がかぶったので、結局併願はしませんでしたが。

 

夏休み中はずーーーーーーっと図書館で院試に向けて文学史の勉強をしていました。ちなみにその範囲に問題は一問も出ませんした泣きたい。試験の傾向が今年から大幅に変わったんですよね。泣きたい。

二次の日本文学の女性の先生三人対私一人の面接は恐怖でした。本当に怖かった。緊張で声裏返ったりしながら面接していただきました。本当に怖かった。

 

まあなんとか受かりました良かった。本当に怖かった。

 

一次試験でやらかしたダメージがきつすぎて、といさんに電話で泣きついたりもしました。私のなにかあるとすぐといさんに泣きつく癖はよくないですね反省します。昔よりは減ったはずなんだけどね、おかしいな。

 

今年はもう文学の授業で履修していないものがほとんどなかったので、教職課程の残りを消化しつつバイトと卒論準備に精を出す一年でした。毎日毎日資料読み込みしてたのになんで今こんなに卒論が大変になるのでしょう……読めば読むほど書くことが増えるミステリー。今も新しく書くテーマ増やそうか悩んでいます。提出まであと一週間と少しなのに。

 

大学の先生、院の先輩、大学の友人、バイト先の先生方、生徒たち、マストドンのみんな、そしてといさんに助けられた一年でした。毎年助けられています。私の関わってくれたすべての人に感謝を。親には憎しみもともに。

 

2023年もよろしくお願いします。

 

ナナナ