ナナナの本棚

好きなことを書いたり書かなかったり。

震災の日

2011年3月11日、私は小学五年生だった。

当時静岡県の小学校に通っていた私にとって、大地震は「来るべきもの」という認識だった。というのも私が東京の小学校から静岡に転校したのはマスコミの災害担当で働いていた父親の転勤が原因であり、またその転勤の理由が「南海トラフ巨大地震が来るかもしれないから」であったからだ。そのように父から直接言われたわけではなかったはずだが、私はそう信じ込んでいたし、おそらくそうなのだろう。

 

さて地震発生時、私は六年生を送る会の準備や予行演習に励み疲れ切った状態で帰りの会に参加している最中だった。

揺れる教室の中で皆が素早く机の下に潜る。恐怖はそれほどなかった。ああまた揺れたな、程度だった。しかしそれなりに揺れが強かったため集団下校することになり、校庭に集められ先生の引率の元、家が近い者でまとまって帰宅した。その最中、今は無きワンセグを使ってガラケーの小さな画面でテレビを見ながら生徒に付き添っている先生がいた。どの先生だったかは覚えていないが、その光景に異様さを感じ心がざわめいたのをよく覚えている。もしや静岡を震源としたちょっとした地震ではなかったのか、と嫌な予感がした。

帰宅すると母親は泊まり込みで仕事になるであろう父のためにシャツにアイロンを掛け、米を炊き、風呂を沸かしていた。その様子を横目に見たテレビには例の津波が映っていた。先生がガラケーで見ていたのはきっとこの光景だった。

私の予感は的中し、これは静岡で起こった地震ではなかった。静岡であれだけ揺れたのだから、震源の東北はひどいことになっているのだろうと小学生の私でも容易に予想ができた。慌ただしく帰宅した父は着替え一式とおにぎりを持って職場に向かい、しばらく帰ってこなかった。

 

来るべきものと思っていた大地震が訪れた。しかしそれは南海トラフではなかった。そしてその規模は小学生の想像力を遥かに上回るものだった。CMはほぼ全てACジャパンになり、ニュース番組はどれもこれも暗い話題だった。災害とはこういうものなのだと初めて知った。

 

震災の日からしばらく、家から徒歩10分の塾に一人で行けなくなった。街灯のない夜道を歩くのが怖くなったのだ。地震とは全く関係ないのに、おかしな話である。しかしその程に恐怖を小学生の私の心に与えたのが、東日本大震災だった。

 

私はもう23歳になった。東日本出身でもない、ただの静岡県の小学生の一人だった私でも、あの日のことは覚えている。