ナナナの本棚

好きなことを書いたり書かなかったり。

苦しみとともに

 

 

自分が無力であることを痛感させられることがある。なにもできないのに、涙だけは勝手に流れてくる。生産性のない涙を流して、時間を無為に過ごす。頭の中だけは忙しない。何も考えたくない気持ちと、そのことだけを考えていたい気持ちがないまぜになる。吐き気がする。

 

SNSの人波を眺め、その一部である自分を顧みて、死にたくなる。

 

どうしてこんなときに限って暇なのだろう。仕事があれば、課題があれば、嫌でも眼の前のことに没頭せざるを得なくなるのに。こんなときばかり手持ち無沙汰で、思考を巡らす時間には恵まれている。食欲もないのに三食しっかり食べろと言われ、味のしない鶏肉を口に入れ咀嚼する。歯列矯正の痛みがいつもより強く感じるから軟骨だけ食べていたい。痛い方がマシだ。

 

精神がしんどいときに限って、月に一度の身体の不調も訪れる。その赤を見て自分もそういえば生の人間で、みんなそうなんだよなと思い出す。私たちは現実に生きているから、物語みたいに都合よくは行かない。後悔しないように生きてきたつもりなのに、振り返ると後悔ばかりだ。後悔先に立たず。保身に走って後悔するなんて一番ダサい。

 

涙が口に入って塩気を感じる。詩集を開こうにも汚してしまいそうで読めない。詩人は苦しみとともに生きた人が多い。彼らは苦しみとともに言葉を残した。

 

それでもやっぱり詩集が読みたくて、開いた。一つここに引用しよう。

 

 

 

ピアノ線の夢       北村太郎

 

ある夜わたくしはラジオで

チェンバロの独奏を聴いていた

スカルラッティやバッハや

シャンボニエールの曲をやっていた

どれもたいそうよかったが

チェンバロの音ってどうしてこんなにすばらしいのか

聴いていて涙が出そうになった

にぎやかな悲しみとでもいいたい音だった

 

一曲おわるたびに

聴衆の拍手が聞こえたが

小さな演奏会場らしく

あらしのようでないのが快かった

みんなチェンバロが好きでたまらない人たちなんだなということが

すぐに分かった

わたくしは蜜柑をたべながら

ことしの蜜柑はあまくて安いなと思いながら

演奏のあいまに司会者の質問に答える独奏者の話に耳を澄ました

チェンバロはペダルがありませんから

いいかげんな演奏はできないのです

曲の解釈をはっきり打ち出さないとだめなのです」

音楽に無知なわたくしではあるが

いくぶんかは分かって

なるほどと思った

それにしても

ピアノばかりが大流行で

チェンバロがあまり弾かれないのはなぜなのだろう

いろいろわけはあるのだろうが

ひょっとしたら

ピアノが発明されてから人類の文化はだめになったのではあるまいか

にぎやかな悲しみなんか必要としない時代が

もう二百年も前から始まったのではないか

あとに百年もしたら

楽器の世界はどんなことになるやら

そんなことを考えているうちに

ふと

共鳴箱に収まっているピアノ線が眼に浮かんだ

ぴんと張られたたくさんの弦

ピアノ線はすこぶる強靭である

たしか工業用にもいろいろ使われているはずだ

一九四四年

ヒトラー暗殺未遂事件というのがあったな

もういけません

ピアノ線の刃(やいば)のようなイメージが広がる

独裁者はこの事件で五千人のドイツ人を殺した

なかでも

主犯格の軍人たちを屠殺牛のように

ピアノ線で絞首刑にして冷蔵庫に吊ったのだった

猫はねこ

鳥はとりであるのに

にんげんは

良いことも悪いことも等身大以上のことをする

おまえ

そのことを頭に入れておいて

大きな眼でよく見よ

にんげんの歴史は

至高の愛と残虐の物語でありつづける

また

別の風景が見えてくる

二本の鉄柱

そのあいだに張られている

一本の細いピアノ線

ぎりぎりに絞って

ボルトとナットでしっかり固定されている

うえは青空

したは断崖

そこにおまえはぶら下がっているのかね

体重は

ふたつの柔らかいてのひらが支えている

肉が血しぶきを吹いて裂けるから

むろん水平にも動けやしない

自分がこんなに重い倫理的なかたまりであるとはね

おまえ

ぶら下がりながら無の弦に足をぶつけ

せめていい音でも出さんかね

というような

マゾ的なまぼろしが現れてくるのだった

ラジオのスイッチはとうに切ってしまっていた

部屋は

うす明かりで

しいんとしている

チェンバロの音が耳の奥で鳴り出すと

徐々に

ふかい慰めと感謝の気持ちにひたされてきた

あまくて安い蜜柑をひとつむきながら

悲しみはにぎやかでなけりゃいけないと思った

チェンバロ

クラヴサン

あしたもいい日でありますように

いくら寒くとも

 

 

(『現代詩文庫 続 北村太郎』一九九四・四)

 

夜は詩を読むに限る。体が苦しいときも、心が苦しいときも、詩はちょうどいい。今中原中也の詩を読んだらきっと余計に泣いてしまうから、こんなときは北村太郎がいい。